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安土城の復元が難しいのはなぜ?安土城のあった場所は今どうなっている?

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安土城織田信長が現在の滋賀県近江八幡市の琵琶湖岸に建てた城です。

 

滋賀県は築城450年にあたる2026年を目標に「幻の安土城」復元プロジェクトに取り組んでいます。

 

実物復元の場合、木造なら約500億円、コンクリートなら約300億円かかると言われています。

 

そもそも城が建っていた期間が10年程と短く、安土城について記した資料がほとんどありません。

 

現在、滋賀県安土城跡の保存と活用を図るため、発掘調査や環境整備を行っています。

 

環境整備では現存している遺構の保存を基本として必要な部分のみ復元を行っています。

 

また県はコンピューターグラフィックス(CG)による仮想現実(VR)や拡張現実(AR)といったデジタル技術で視覚化するプラン等の検討も行っています。

 

 

そもそも安土城とはどのような城だったのか?

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城は琵琶湖に突き出すように建っており、安土山の麓から山頂まで使用した巨大な城だったと言われています。

 

軍事的な要塞というよりは、戦国時代を代表する権力者の織田信長として建てた豪華な城だったようです。

 

当時信長は「安土山図屏風」という城の詳細な画を画工に描かせて宣教師を通じて当時のローマ教皇に献上したと言われています。

 

安土城の外見に関しては当時日本に滞在していた宣教師ルイス・フロイスが著書「日本史」で

 

  • 中心に天主がある
  • 塔は七重からなっており内外見事な建築が行われている
  • 内部は色彩豊かに描かれた肖像たちが壁全面を覆い尽くしている
  • 外部は、階層ごとに色が分かれている
  • 屋根には技巧を凝らした形の雄大な怪人面が付けられている

 

などと記しています。

 

安土城の歴史沿革

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1576年 

織田信長が近江守護六角氏の居城観音寺城の支城のあった

安土山に築城を開始。

 

1579年

完成した天主に信長が移り住む。

同年頃に、落雷により本丸が焼失。

 

1582年

家臣の明智光秀が謀反を起こし本能寺で織田信長が死去。(本能寺の変)

その後、明智光秀安土城を占拠するが山崎の戦いにて

明智光秀羽柴秀吉に敗れた際、天主と周辺の建物が焼失。

 

1585年

本能寺の変以降、織田氏が居城としていた

豊臣秀次八幡山城築城のためこの年をもって廃城。

 

1918年

安土城保存を目的とした「安土保勝会」が設立。

 

1926年

当時施行されていた史蹟名勝天然紀念物保存法により、

安土城址が史蹟に指定される。

 

1928年

管理団体に指定された滋賀県が大手門跡などに標石を建立、

二の丸跡の復旧、城内石段の改修や天主・本丸跡の

発掘調査を開始。

 

1952年

文化財保護法により特別史跡に指定される。

 

1960年

滋賀県が城跡修理に着手。

 

1989年

「調査整備20年計画」を開始する。

 

1999年

本丸跡から内裏の清涼殿と同じ平面を持つ建物が発見される。

 

2006年

日本100名城(51番)に選定される。

 

2009年

「調査整備20年計画」が終了。

 

 

まとめ

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織田信長は日本史全体の中でも特に人気のある人物です。

 

その信長が当時の権力を使い建造した安土城は実質10年程しか存在していなかったことと、当時の資料から伝えられる豪華な様子から幻の城ともいわれています。

 

こういった経緯から人々のロマンを掻き立て、現存していないにも関わらず日本100名城に選ばれる程人気がある城です。

 

しかし最初に述べた様に建造には莫大な費用がかかりますその為、実物建造には反対意見の方が多いのが現状です。

 

滋賀県としては基本的に実物建造を目的にしながら資料調査、現場での発掘調査を行い当時の姿を明らかにすることを目指しています。

 

他の名古屋城や姫路城、熊本城など城というのはやはり地域を代表するようなシンボルだと思います。

 

世の状況や資金によって左右される事とは思いますが調査自体は実物、CGに関係なく意味のある事なので是非続けてもらって私達は今後調査の進展を楽しみに待ちたいです。